信長・秀吉・家康の強さのひみつ・・・
一昨年に20キロ作ったお味噌が半分がなくなったので、もう1つの樽から残りのお味噌を出しながら、元気のモトの1つ
「お味噌について」をブログに載せてみました♡
プルーンお味噌を作り始めて、5年目になります。私が作っているお味噌は、ミキプルーンが入っているので、皆さんが作るものとは、作り方も、味も、少し違うと思います。味が濃いこともあり、市販のお味噌と半分の割合にして、飲んでいます。
プルーンには、カロテン・ビタミンB1・B2・B6・カリウム・リン・カルシウム・マグネシウム・鉄がふくまれています。
暑い夏をこえて発酵させると、さらに栄養価の高いお味噌ができるそうです。
おかずがなくても、ごはんと、具沢山のお味噌汁で、1日のスタートをきれると、この時期、さらに温まりますね♡
少し長くなりますが、お味噌についての記事です ↓
読んでいると、3人の武将のこと、地方によって色々なお味噌があること、
「3人の強さとお味噌(食べていたもの)との関連性」
など色々気になってきますよ(わたしだけかもですが・・・)
↓ ↓ ↓
< 味噌の発祥と歴史 >
✵平安時代・・・「味噌は、ぜいたく品」
この頃のお味噌は、調味料として料理に使うものではなく、食べ物につけたり、なめたりして、そのまま食べていました。地位の高い人の給料や贈り物として扱われ、庶民の口にははいらないものでした。
✵鎌倉時代・・・「味噌汁登場」
鎌倉時代に中国から、日本へやってきた僧の影響で、すり鉢が使われるようになり、粒味噌をすりつぶしたところ、水に溶けやすかったため、味噌汁として利用されることになりました。味噌汁の登場によって、「一汁一菜」という鎌倉武士の食事の基本が確立されたといわれています。
✵室町時代・・・「味噌料理の発展」
大豆の生産量が増え、農民たちが自家製の味噌を作るようになり、保存食として庶民にも浸透しました。
✵戦国時代・・・「味噌は、戦陣食」
戦国武将たちは、戦場での食料に必ず味噌を持ちました。当時、味噌は、調味料であるとともに、貴重なたんぱく源でした。保存できる栄養食であったこともあり、干したり焼くなどして携帯しやすくしていました。武田信玄は、「信州味噌」、豊臣秀吉、徳川家康は、「豆味噌」、伊達政宗は「仙台味噌」というように、味噌作りをすすめていました。
✵江戸時代・・・「味噌文化が花開く」
江戸の人口が50万人に達し、味噌の需要に対する生産量がまかないきれなくなりました。そこで、三河や仙台からどんどん味噌が江戸に送られ、味噌屋は、大繁盛しました。味噌汁が、庶民の味となって飲まれ始め、味噌が生活になじんでいきました。
✵昭和時代・・・「味噌生産技術の発展」
時代にともない、味噌の容器は、樽から冷蔵庫へ収納しやすいカップへ変化していきました。だし入り味噌が登場し、社会進出する女性たちを後押ししました。
名古屋の名物料理といえば、みそカツにみそ煮込みうどんである。これらに使われているのは、独特の赤い豆みそだ。赤みそは尾張名古屋の名産となっている。
だが、元はと言えば、赤みそは尾張名古屋ではなく、三河で誕生した。三河は徳川家康のふるさとであり、勇猛果敢な三河武士たちを育てた地である。赤みそは、この三河武士のソウルフードなのだ。
味噌はもともと、飛鳥時代に中国から伝えられた。当時のみそは、大豆と塩と水だけで作る豆みそであった。時代が経つと、大豆の発酵を早めるために、米こうじや麦こうじが加えられるようになる。あるいは、大豆を蒸して作る赤みそに対し、大豆をゆでて作るまろやかな白みそが考案された。
しかし、三河では一貫して赤みそが作り続けられた。
大豆はやせた土地でもよく育つ。それにはワケがある。大豆の根には、大気から窒素を取り込む根粒菌が共生している。だから、窒素分の少ないやせた土地でも成長することができるのだ。そして、三河の土地はやせていた。また、水の便が悪い台形状の土地が多く、水田を開くことができなかった。
だから、大豆が盛んに栽培されたのである。大豆しかないので、豆みそしか作れなかったというわけだ。
だが、こうした環境の厳しい土地だったからこそ、強靭な三河武士が育ったのである。
三河出身の徳川家康をはじめ、尾張出身の織田信長と豊臣秀吉。天下統一にかかわった3人の武将は、いずれも赤みそ文化圏で育った。
この3人は、親族や家臣を全国に配置したので、江戸大名の7割は愛知県にゆかりがある。前田利家、本多忠勝、加藤清正、福島正則、山内一豊などの名将は、皆、赤みそ文化圏の出身だ。
赤みそ文化圏は、なぜ、このように優秀な人材を生み出したのだろうか。
大豆だけで作る赤みそは、米こうじや麦こうじを加えて作るみそよりも栄養価が高い。大豆には、ストレス軽減効果のある神経伝達物質、セロトニンのもとになるトリプトファンが豊富に含まれている。セロトニンは「しあわせ物質」と言われるほどで、気分が落ち着き、前向きになって士気が高まるのである。
それだけではない。赤みそには、脳の機能を高めるレシチンや、疲労回復や免疫機能を強化する効果のあるアルギニンまでもが含まれている。
三河武士が赤みそに育てられたというのは、決して大げさな話ではないのだ。
みそは日本各地で作られているが、信州みそも有名だ。信濃のような山国では、コメは栽培
しにくい。そこで大豆を使ったみそが作られたのである。
戦国時代、信濃を支配していたのは武田信玄である。信玄はみそ作りを奨励し、「陣立(じんだて)みそ」という戦場食を考え出した。陣立みそとは、豆を煮てすりつぶし、こうじを加えて団子にしたものである。こうしておくと、進軍している間に発酵してみそとなる。信玄は、織田信長でさえ恐れさせ、徳川家康も三方ヶ原の戦いで大敗させたほどの強豪である。その強さの秘密のひとつは、陣立みそだったのだ。
信州のように海のない地域では、塩はつねに備蓄していなければならない。みそは塩分を蓄えるのに格好の食糧であった。
武田家には、川中島の周辺地域でみそを作るよう奨励した文書も残されている。川中島は信玄の最大のライバル、上杉謙信との戦いが繰り広げられた地である。信玄は戦いに備えてみそを準備したのだ。
これが現在の信州みそのルーツである。
腹が減っては戦さができぬ。戦国時代の武士たちは、日常、コメを1日当たり5合食べていたそうだ。おかず代わりに食べていたのが、野菜を入れたみそ汁だ。
戦闘中ともなれば、コメを1日1升(10合)食べた。エネルギー換算すると5200キロカロリーだ。
コメは豊富な炭水化物を含む、栄養価の高い食物だ。一方、みその原料である大豆はタンパク質や脂質を多く含んでいる。
コメと大豆を合わせれば、3大栄養素である、炭水化物、タンパク質、脂質がバランスよく摂取できるのだ。
また、コメはアミノ酸の中でリジンだけが少ないが、大豆はこのリジンを豊富に含んでいる。反対に大豆はアミノ酸のメチオニンが不足しているが、コメにはこのメチオニンが含まれているのだ。
しかも、当時、武士たちが食べていたのは、白米ではなく玄米だった。精米技術が発達していなかったからだ。玄米は、白米に比べて、ビタミン、ミネラル、タンパク質が豊富に含まれている。
つまり、コメと大豆の組み合わせは、理想的な完全食なのである。
ただし、玄米は白米に比べて消化が遅い。この欠点を補うのがみそなのだ。みそには酵母菌、乳酸菌、酵素などが含まれていて、玄米の消化を助ける。
コメとみそと野菜しか食べなかった「草食系」の戦国武士たちが強かったのは、このコメとみそを中心とした完全食があったからなのである。
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